2023年12月05日
重要
歴史の解説13 〜江戸時代〜
皆さんこんにちは、
s-Liveかながわ相模原富士見校スタッフです!!
前回は、財政難に苦しむ江戸幕府を改革しようとする人たちについて振り返りました。
そして今回のテーマは幕末!
いよいよ江戸時代が終焉へと向かいます。
ドラマなどでも人気な時代で、
坂本龍馬など名前を聞いたことのある偉人がたくさん出てくると思いますが、
今回は、その流れを大まかに追っていきたいと思います!
1853年、ペリーが4隻の黒船で浦賀に来航します。
彼の目的は、日本の鎖国体制をやめさせること。
アメリカは、航海の中継地点として日本と通商を結びたかったのです。
結果、アメリカの軍事力を恐れた日本は、
アメリカと日米和親条約を結ぶことになりました。
この条約は、通商(アメリカと商取引)をすることは認めていませんでしたが、
日本は下田と函館2つの港を開港することになりました。
ですがアメリカは、日本との通商条約の締結を強く望んでいます。
そして、当時の大老井伊直弼は、
アメリカとの貿易を可能にする日米修好通商条約を、
天皇の許可なく締結しました。
このころ、尊皇攘夷運動という運動が盛んになっていきました。
尊皇とは、頼りにならない幕府ではなく、天皇を尊重しようという考えです。
そして攘夷とは、外国を追い払ってしまおうという考えです。
井伊直弼は、幕府の政策に反対する人々を次々と処罰していきましたが、
彼もその後、反発した人々によって桜田門外の変で殺害されてしまいます。
このころ、朝廷と幕府以外にも強い力を持ったのが、
薩摩藩や長州藩などの藩です。
特にこの2つの藩は、幕末にかけて、大きな役割を果たしていくこととなります。
薩摩藩が唱えたのは、外国を追い払ってしまおうという攘夷の考えです。
しかし、薩摩藩士が外国人に斬りかかった生麦事件をきっかけとしたイギリスからの報復、
薩英戦争によって、
薩摩藩は外国の力を知り、攘夷が不可能であることを悟ります。
長州藩も、薩摩と同じく攘夷の考えを持っています。
尊重攘夷を唱える長州藩は、
下関海峡を通った外国船を砲撃しますが、その報復として各国から砲撃を受け、
長州藩も攘夷を断念することになります。
このようにして、薩摩と長州2つの藩は、
外国は日本よりも大きな力を持っており、攘夷は不可能であると悟ります。
そして、そんな外国に負けないような国を作るためには、
幕府を変えようという考えになり、これが討幕へと繋がっていくのです。
土佐藩の藩士、坂本龍馬によって1866年、
薩摩藩と長州藩は薩長同盟を結び協力体制を築きます。
さて、討幕を目指す薩摩と長州は、
当時政治力のあった岩倉具視と結び、
明治天皇に幕府を倒しなさいという命令、
討幕の密勅を出させることに成功します。
しかし、この密勅と同じ日に行われたのが、大政奉還です。
江戸幕府が朝廷に権限を返還することで、
倒すべき幕府がどこにもなくなってしまったのです。
幕府側は、大政奉還を行ったあとで、また体制を立て直すつもりでした。
幕府を倒そうとしていた側(新政府)は、
幕府がまた復活することのないように、
王政復古の大号令を出して新しい政府が樹立すること宣言します。
ここで、江戸幕府は滅亡することになります。
しかし、江戸幕府もこのまま滅亡するわけではありません。
旧幕府の軍勢と新政府の軍が対立し、
戊辰戦争が起こります。
そして時代は、明治時代へと進んでいきます!
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