2023年11月28日
重要
歴史の解説⑫〜江戸時代〜
皆さんこんにちは、
s-Liveかながわ相模原富士見校スタッフです!!
前回の記事では、江戸幕府が栄えた前半の時代をお話ししましたね!
貨幣を大量に生産したことで物価が高騰し、幕府が混乱を迎えるところまでお話ししました。
今回は、そんな財政が窮地に陥りかけた幕府をなんとか立て直そうと、
活躍した人たちについて見ていきましょう!
幕府の財政をなんとかしなくてはと、
最初に政治を行った人が、新井白石さんです。
彼が行った政治の改革は、後に正徳の治と呼ばれ評価されています。
彼はすぐに、質の低い元禄小判の発行を中止し、
代わりにもとの小判と同じ比率の正徳小判を新たに製造しました。
しかし、新たに小判を作ったことで、これはかえってさらなる混乱を招く結果となってしまいます。
また、白石が金銀の流出が起こっていると目をつけたのが、長崎貿易です。
前回もお話したように、
当時の江戸幕府では、一部の国とは貿易を行っていました。
白石は、長崎での貿易を金銀の流出を防ぐために禁止しました。
以上が、新井白石の政治改革です。
次に、将軍徳川吉宗の時代に入ります。
吉宗は29年間の間、政治の改革を将軍自ら行いました。
吉宗の改革は、享保の改革と呼ばれています。
吉宗は、倹約令を出してぜいたくを禁止し、
増税をすることによって財政難を乗り切ろうとしました。
他にも、吉宗が行った政策には、
大名からお米を納めさせる代わりに参勤交代の負担を緩めるという、
上げ米のしくみを作ったことや、
新しい田んぼの開発を進め、
お米だけではなく様々な作物の栽培を奨励したことなどがあります。
このように、お米や作物を集め、財政難を乗り越えようとした吉宗ですが、
長雨によって起こった飢饉によって彼の政策は挫折してしまいます。
次に政治の改革を行ったのは、
10代家治の時代に、側用人から老中になった田沼意次です。
彼の政治には、経済活動を活発にしようという特色があります。
意次は、
商人・職人たちが株仲間という同業者組合を結成し、
商品を独占販売することを広く認めさせます。
つまり、
商人がこの商品を売りたい!となった時に、
その商品の株仲間に入らなくてはならないのですね。
そして意次は、株仲間に税を課して、幕府の財源としました。
彼の政治は、
経済活動を商人の力を借りて活発にさせ、
幕府の財政難を乗り切ろうとする意欲的なものでした。
しかし、わいろが横行するようになり、批判も招きます。
そして、飢饉や浅間山の噴火などの天災により、彼の時代は終わることとなります。
次に政治を担ったのが、老中松平定信です。
彼の改革は寛政の改革と呼ばれ、
前の田沼時代とはうってかわって、厳しい政策が特徴的です。
定信は、倹約令でぜいたくを禁じ、
さらに飢饉に備え米を蓄える囲米を実施させます。
また、彼の政治で特徴的なのは、出版物の取り締まりです。
朱子学以外を教えることを禁じ、
さらに幕府へ反抗する内容や、
風紀を乱すような内容の出版物の取り締まりを強化しました。
定信が老中を退陣に追い込まれた後は、
11代将軍徳川家斉が大御所として政治を行いました。
1832年ごろ、凶作による天保の飢饉が起こり、
人々は食料不足によって困窮し、各地で一揆や打ちこわしが起こります。
そんな中、政治を担うことになったのは水野忠邦です。
まず、彼は他の改革と同じように倹約令で質素倹約を呼びかけます。
さらに彼は、田沼時代に盛んになった株仲間を、
物価の高騰を抑えることを期待して解散させます。
しかしこれは逆効果となり、混乱を招きました。
彼の厳しい政治と困窮する生活に不満をもつ人々が多い中、
忠邦は、
江戸や大阪の土地を幕府の直轄地にしてしまおうという、上知令を出します。
もちろんこれには各地の大名たちが反対し、
結果上知令は実施されず、忠邦は老中を退きました。
以上が、幕府の財政難のために政治の改革を行った人たちです。
江戸幕府の力は、
上知令が各地の反対によって阻止されるほどに、弱くなっていることがわかりますね。
次回は、そんな江戸幕府の終わりを見ていきたいと思います。
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